徳川家康の静岡の拠点、浜松城

歴代城主

浜松城の歴代城主はどんな顔ぶれなのか気になりますね。

徳川家康が29歳のときから17年間過ごした浜松城ですが、家康が去ってからは 徳川家とゆかりのある大名が城主となり守っていきました。 つまり徳川家の信頼を得ている者が浜松城主となってきたとも言えるので、出世城 と呼ばれるように要職に登用されることはごく当たり前の流れなのかもしれません。 城主を勤めたから出世した、は逆で「出世する者が城主を任されてきた」というのが 正確な表現になるのかもしれません。 明治維新のあとには城郭は破壊され荒廃する浜松城ですが、昭和33年に旧天守台の 上に新たな天守閣が再建されると、市の史跡に指定され大切にされるようになります。 どれだけ出世した人物が多いのか説明していきますと、出世頭はなんといっても 1代目城主の徳川家康でしょう。 1570年~1586年まで在城した徳川家康は天下の将軍様にまでなった人物です から当時の人々だけでなく今でもその名を知らぬ者はいません。 2代目城主の菅沼定政(すがぬまさだまさ)は1590年まで在城しましたが、 特に何もなく役目を果たしました。 3代目城主の堀尾帯刀吉晴(ほりおたてわきよしはる)、4代目城主堀尾信濃守忠氏 (ほりおしなののかみただうじ)も要職には付きませんでしたが、堀尾信濃守忠氏は 1599年~1600年と期間も短かったし仕方ないかもしれません。 5代目城主の松平左馬允忠頼(まつだいらさまのすけただより)、6代目城主の 水野対馬守重仲(みずのつしまのかみしげなか)、7代目城主の高力摂津守忠房 (こうりきせっつのかみただふさ)までの人物ですが、実はこの間徳川家康以外に 幕府の役職に就いた者はいないようで、まだまだ出世城と呼ばれるようにはきっと なっていなかったと思われますが、この後の城主からは一味違います。 8代目城主の松平和泉守乗寿(まつだいらいずみのかみのりなが)は老中にもなり、 9代目城主の太田備中守資宗(おおたびっちゅうのかみすけむね)は役職こそ ありませんが1644年~1671年と長期間お城を任されます。 10代目城主の太田摂津守資次(おおたせっつのかみすけつぐ)は寺社奉行に就任 しますし、11代目城主の青山因幡宗俊(あおやまいんばのかみむねとし)は わずかな期間、1678年~1679年で代変わりします。 12代目城主青山和泉守忠雄(あおやまいずみのかみただお)、13代目城主の 青山下野守忠重(あおやましもつけのかみただしげ)と青山家はあまりよい待遇を 得られなかったのか出世は出来ませんでしたが、それでも浜松城主になれたことを 誇りに思っているでしょう。 ここからしばらくは松平家のターンになり、14代目城主の松平伯耆守資俊 (まつだいらほうきのかみすけとし)が1702年から、15代目城主 松平豊後守資訓(まつだいらぶんごのかみすけのり)、そして16代目城主の 松平伊豆守信祝(まつだいらいずのかみのぶとき)は大阪城代老中と再び出世城の 名に恥じない活躍をすることになります。 17代目城主の松平伊豆守信復(まつだいらいずのかみのぶなお)は1744年~ 1749年とやや短期で終わり、18代目城主の松平豊後守資訓 (まつだいらぶんごのかみすけのり)も京都所司代と役職に就任します。 19代目城主の松平富之助資昌(まつだいらとみのすけすけまさ)で松平家の ターンは終わりますが、6分の2で出世したと考えるとまずまずの成績だと胸を 張っても良いのではと思われます。 20代目城主の井上河内守正経(いのうえかわちのかみまさつね)は老中寺社奉行 と大活躍、21代目城主の井上河内守正定(いのうえかわちのかみまささだ)、 22代目城主の井上河内守正甫(いのうえかわちのかみまさもと)は特筆すべきこと はそれほどなく、23代目城主の水野越前守忠邦(みずのえちぜんのかみただくに) は寺社奉行大坂城代、京都所司代老中と泣く子も黙る快進撃をします。 24代目城主の水野金五郎忠清(みずのかねごろうただきよ)、25代目城主の 井上河内守正春(いのうえかわちのかみまさはる)は再び沈黙を守りますが、最後の 26代目城主の井上河内守正直(いのうえかわちのかみまさなお)は寺社奉行老中 と有終の美を見事に飾ってくれました。