徳川家康の静岡の拠点、浜松城

徳川家康が築城

三河からやってきた若かりし徳川家康が築城した浜松城。

三方ヶ原に築城された浜松城は、東西に約450メートル、南北に約500メートル の城郭を持つそこそこ大きなお城でした。 梯郭式と呼ばれる築城法で、各曲輪が隣接して階段状となり自然の地形を利用して いるお城に多く見られるタイプです。 大地の斜面に合わせる様に、北西の最上位に天守曲輪、その下位に本丸と二の丸、 低位の東南には三の丸がくるように設計されていました。 天守まで攻め入るには駆け上がっていかなければならず、平地よりも攻略しづらい 地形に浜松城は建てたということです。 主に武田信玄の侵攻を警戒していたようで、遠州一帯に睨みを利かせらる三方ヶ原 の丘を自分の拠点としたのしょう。 築城された1570年は元亀元年でもあり、徳川家康はこの時29歳でした。 意外と若かったことに驚きを禁じえないのですが、戦国時代は寿命も今より短かった はずですしこれでも若者とは呼べない年齢だったのでしょう。 そして戦国時代なので、彼が在城中にも大きな戦が何度もありました。 姉川の合戦、三方ヶ原の合戦、長篠の戦いなんかは有名で、今でも近所のお年寄りに 「ねぇ、聞かせてよ」と頼めば昨日のことのように話し出してくれるでしょう。 特に1572年の三方ヶ原の合戦は関ヶ原の合戦よりも激しい戦だったと伝えられて いるほどの厳しい合戦で、徳川家康にとっても苦しい思いをしたはずです。 これは徳川・織田連合軍VS武田信玄が三方ヶ原台地で繰り広げた合戦で、家康 にとって生涯最大の負け戦とも言われています。 それもそのはず、家康軍は1万の兵力で3万の武田軍と戦うことになったからです。 どんなに策略を練っても3倍もの兵力差をひっくり返す事はできず、徳川家康は たまらず変装して浜松城へと逃げ帰ったそうです。 家康が勝利せずに兜を脱いで敗走するなんてよほどのことで、精神的ダメージも 大きかったと推測される出来事です。 その証拠にへこんだ家康はしょぼくれた自分の顔をスケッチさせ、一生涯大切に 保管してことあるごとに眺めては調子付いた自分を戒めたそうです。 よほど悔しかったのでしょう、スケッチだけでは心の整理ができなかった家康は 三方ヶ原台地の犀ヶ崖で野営する武田軍を夜中に奇襲攻撃もします。 その一帯の地理に詳しくない敵兵を騙すため崖に白い布を掛けて橋のように見せ、 崖下に何人もの武田軍を落下させることに成功します。 現代では夜中でも街頭の灯りで照らされているので、橋の場所は正確にわかるため よほどの田舎でなければ見間違えることはありませんが、戦国時代にはネオンも なければ自動販売機、コンビニの灯りもなかったのでこんな作戦も成功したのでしょう。 そんな危険地帯に野営するほうも悪いのですが、とにかく夜更けに橋へ逃げようと した兵士達を退治していくばくかは溜飲を下げたのです。 地理に詳しい兵やこのあたり出身者、それに昼間から地形を注意深く確認していた 者は騙せなかったでしょうが、慌てふためいて理性を失ったり冷静さを欠いた兵は 崖下へとダイブすることになったのです。 この奇襲攻撃に関係の深そうなのが毎年7月15日に犀ヶ崖で行われる供養の ための郷土芸能で、三方ヶ原合戦での死者を供養するため奉納されています。 浜松市の無形文化財にも指定されており、近所の住民だけでなく隣県の県民にも 知られるほどの知名度があるので戦国時代に興味のある人ならこれを知っている 方もけっこう多そうですね。 またそのあたりには布橋という地名がありますが、由来は間違いなくこの出来事が 関わっていると断言できそうです。 三方ヶ原の合戦の3年後には長篠の戦いがあり、そこから6年後には高天神城の攻略 という大イベントも発生します。 その3年後にも小牧・長久手の戦いと、徳川家康は浜松城を拠点として何度も大きな 合戦をしてきたのです。